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タコマ・ボート Tacoma Boatは1926年に設立され、第二次大戦で多くの船艇を製造した。1970年代と1980年代初めに急速に成長したが、幾つかの大規模な政府契約で困難に陥り、1985年に連邦破産法第11条の保護を申請した。1986年に破産から脱出するも回復することができず、1992年に閉鎖。マリーン・ヴュー・ドライヴ1840番地 1840 Marine View Driveにあった施設は1998年に清算された。Googleでここの航空写真を見ることができる


※タンパ造船所は、1917年に設立されたタンパ造船所&ドライ・ドック社 Tampa Shipbuilding & Dry Dock Companyとして知られていた。この会社は、1892年に設立されたタンパ・ファウンドリー&マシン社 Tampa Foundry & Machine Co. の既存の施設を1905年に引き継いだ。1916年に旅客船ポーキプシー Poughkeepsieの建造が同造船所として初の契約。第一次大戦は2隻だけを建造、第二次大戦直前に海事委員会 Maritime Commissionの商船建造の戦争長期間造船プログラムの1つに選ばれた。しかし、当初の海事委員会の契約の作業を開始して間もなく、財政難に陥り、ジョージ B. ハーウェル George B. Howellに売却。ジョージ B. ハーウェルはタンパ造船会社 Tampa Shipbuilding CompanyもしくはTASCOに改名。ピーク時には、16,000人の従業員を雇用し、フロリダ州 State of Floridaタンパ Tampaで最大の雇用主だった。同社は戦後、商業的な仕事を追求していたが、1948年までに操業を停止。この造船所は当初海軍に引き継がれ、朝鮮戦争後まで保存されていた。最終的にタンパ港 Port of Tampaに引き渡され、タンパ港はほかの用途のために開発し、現在はGulf Marine Repairに占有されている


※1942年にマシュー・マクロスキー Matthew McCloskeyはタンパの港湾局が所有する土地、タンパのフッカーズ・ポイント Hookers Pointに造船所を設立。造船所には、C1-S-D1型コンクリート製船体貨物船を建造するための13ヶ所の建造場所があった。海事委員会は、開発に$7,000,000を提供。コンクリート船の建造に成功したわけではないが、のちに鋼鉄船の建造に切り替わるも戦後は閉鎖。この造船所は、1948年1月にタンパ市 City of Tampaが戦争資産管理局 War Assets Administrationから取得し、毎年リースした。最初の重要な運用者は、タンパ・ファブリケーターズ Tampa Fabricatorsという子会社を含むタンパ・シップ・リペア&ドライ・ドック社 Tampa Ship Repair & Dry Dock Co. として知られていた。この会社は、1972年にジョージ・スタインブレンナー George Steinbrennerのアメリカ造船社 American Ship Building Companyが五大湖の造船所を閉鎖したのちに買収、そののちタンパ造船所社 Tampa Shipyards, Inc. と改名。アメリカ造船社は、隣接するシュリンプ・ボート・ドックをパナマックス・グレービング・ドックに改装し、既存の2ヶ所のグレーヴィング・ドックを補完することで拡張するも1995年に破産。そののち、リースはギリシャの撒積貨物船を運航する会社の子会社によって一時的に保持され、タンパ造船 Tampa Shipbuildingと改名されたが、1997年に新しい事業体に譲渡。これは、アラバマ州 State of Alabamaモービル Mobileでベンダー造船&修理社 Bender Shipbuilding & Repairを所有しているトミー・ベンダー Tommy Benderと、タンパでガルフ・マリーン・リペア Gulf Marine Repairを所有しているアーロン・ヘンドリー Aaron Hendryが共同所有し、タンパ・ベイ造船&修理会社 Tampa Bay Shipbuilding & Repair Companyと呼ばれる。ベンダーは2002年にヘンドリーを買収するも2008年にエジソン・ショーエスト・オフショア Edison Chouest Offshoreに事業を売却。ショーエストはタンパ・シップ Tampa Shipに改名。造船所は依然としておもに修理施設だが、ほかの修理工場よりも製造能力が高く、ショーエストの管理下でプラットフォーム補給船(PSV: Platform supply vessel)を建造している。Googleでここの航空写真を見ることができる


※トッド Toddがガルヴェストン造船所 Galveston shipyardを始めたのは1934年で、ペリカン島 Pelican Islandにあった4つの小さな造船所のうち最も西にあったガルヴェストン・ドライ・ドック&コンストラクション Galveston Dry Dock & Constructionを買収した。そののち、1941年にグレイズ鉄工所 Gray's Iron Worksがトッドの西に4バースの新しい造船所を始めたが、1943年に海事委員会 Maritime Commissionの要請により、トッドはグレイズ鉄工所の運営を引き継ぎ、自社の造船所と統合し、トッド・ガルヴェストン・ドライドック社 Todd Galveston Drydocks, Inc. と名付けた。戦後、この造船所でさらに3隻の船を建造したが、1949年、Toddはヒューストンのブラウン・シップビルディング社 Brown Shipbuildingの造船所をこの地域の主要造船所としてリースし、ガルヴェストン造船所は船舶修理に戻り、トッド・シップヤーズ社ガルヴェストン部門 Todd Shipyards Corporation, Galveston Division、略してトッド・ガルヴェストン Todd Galvestonと改名。1960年代半ば、トッド・ガルヴェストンは改装工事に進出し、のちにタンク・バージ tank bargesに進出し、ミッドボディと艀の密閉された製造工場として使用するためにテキサス・クリッパー・ロード Texas Clipper Roadのふもとにある近くの施設を取得。トッドは1990年、連邦破産法第11章を適用してガルヴェストン造船所を閉鎖し、最近取得したポストパナマックス post-Panamaxとパナマックスのフローティング・ドライドック Panamax floating dry-docksをそれぞれアラバマ・シップヤード Alabama Shipyardとベンダー・シップビルディング Bender Shipbuildingに売却し、オフサイトの加工工場をサウスウェスト・シップヤード Southwest Shipyardに売却。1993年、ペリカン島の残りの資産はガルヴェストン港 Port of Galvestonに売却され、そののちガルヴェストン港はニューパーク・マリン Newpark Marineにリースした。現在、ニューパーク・マリンはガルフ・カッパー社 Gulf Copperによって洋上修理場として運営されている。Googleで上空から見た造船所の様子はこちら。グレイが開始した船体番号の順序はトッド・ヒューストン社に引き継がれ、トッド・ガルヴェストン社では新しい番号が付けられた。2025年6月11日の発表によると、モントリオール Montrealを本拠地とするデイヴィー Davieは、ポート・アーサー Port Arthurとガルヴェストンに施設を持つガルフ・カッパー&マニュファクチャリング社 Gulf Copper & Manufacturing Corporationを買収する予定


Update 25/06/13